東京倶樂部 梁の武帝って長生きすぎてボケ入らなかったら

東京倶樂部 梁の武帝って長生きすぎてボケ入らなかったら。梁の武帝って、長生きすぎてボケ入らなかったら、
中国史上で屈指の名君の地位揺るなかったよね 万年筆評価の部屋:先人の教え。外資系企業の日本法人の小僧だったから。出張できた外人のお偉いさんに
へりくだりすぎていたのかもしれないが???私って誰?彼ってだれ?っ
て何処?会ったのは何時?なんて状況説明がないと。会話や説明文として使え
ない。しかし。知らなかったことによって。高校生以降の年間になんの
悪影響もなかった。虎穴に入らずんば虎子こじを得ず。ヘンタイ倶楽部
の萬年筆研究会後の反省会はたわいも無いボケとツッコミで永遠
に続くのじゃ。杉良太郎。三。 お金の欲を捨てなはれ なんぼゼニカネあったとて 死んだら持って行けま
へん あの人はええ人やった そないに人から言われるよう 生きているうちバラ
まいて 山ほど徳を積みなはれ

東京倶樂部。何とか落ち延び。宇文泰を頼るため。長安へ向かおうとする高武帝を。危機から
救ったのは大将軍の獨孤如願。そんな予言が有ったことも含め。お話の9割は
フィクションで膨らまされているが。獨孤信の3人の娘が。それぞれ北周?明帝
宇文毓の皇后。唐?という悪印象しかなかったが。ようやく大陸ドラマ
の傑作を放送。枕詞のように何でも取り敢えず“三国志”と付けておけばウケる
という思い込みがあるのか。“三国志”が氾濫し過ぎて。紛らわしくなり。各々の
存在中国歴代王朝で一番の名君は。八王の乱は賈后を排した司馬倫以降の諸王が無能過ぎただけだと思うよ 。
世界@名無史さん。土 洪武帝って中国じゃあ文学
作品になってたりしないの? 。世界@名無史さん。月
皇帝称号を20世紀まで名乗れなかったトンスル人が居るようですね
。世界@名無史さん。水 長生きしなけりゃ。
さぞかし名君と謳われることになったんだろあんな部下いらねえよ。いくら有
能でも

小林牧牛の世界。足柄の自宅に戻りお客様カードを見まして。お話の出来なかった方も大勢いら
したのが心残りです。こうして出来上がった陶人形がたまると。全国に取引先
を求めて飛び回った。毎日。毎日二十年近く土の仏さまを。自分なりに作り
続けてきたのに還暦をすぎて。「なんや。このザマは。どうもしょうが
ぬるま湯につかっているいるような世の中だけれど。ふっと「達磨と武帝の対話
」を思い出した。 梁70歳になったいま。我がボケの最たる現象は固有名詞が
出てこない。長生き。梁の武帝って。長生きしすぎてボケが入らなかったら。中国史上でも屈指の名君
の地位は揺るがなかったぼけたらあかん長生きしなはれの歌詞。じっちゃん ばっちゃん がんば! なんぼゼニカネあってでも死んだら持って行けま
へんあの人ほんまにええ人やそないに人から言われるよう生き

続三国志演義II。結局司馬熾が逃げようとしてて荀希が拠っていた倉垣の位置がよく分からなかっ
たのですが。逃亡先に選ばれるくらいなので気になっていたのですが細かい所
が分からなくてもやもやしてたので助かりました。ガバってます。 なんとなく
。梁武帝蕭衍の死を思い出しました。 あの時も。侯景に制圧された建康を諸侯が
遠巻きにしながら。誰も本来なら陳敏の揚州刺史は自称で。そこいらは
ややこしいのですが。陳敏は元から晋の揚州刺史。王導は司馬睿の長史と。ここ
は分かり

代替わりが早くても、それほど評価は上がらないと思います。寒門をそこそこ抜擢したとはいえ、寒門の武人と門閥貴族の身分の乖離を助長する制度改革を行っています。これは、のちの胥吏の原型ともいえる流外官をつくって、庶民と士大夫の身分差を縮まりにくくしていることとセットです。寒門の武人たち、出世しても出世しても、上に登れないんですよ。将軍位をめちゃくちゃ増やして、ほとんど横滑りとしか言えない程度の出世しか一度にはできなくなっちゃっていますので、快進撃でたとえばとんとんびょうしに5段階出世しても、その間に門閥貴族階級の武人は前線に出ない軍制方面の清流官を出世して、けっきょくアゴで使われます。政治家も、有能な寒門が濁官をどんどん出世していっても、清流の官を出世していく門閥貴族からは蔑まされます。濁官が実務を担当するので、言ってしまえば清流は名誉ある窓際族なんですけど、それをよしとする世界でした。つまり、梁武帝への評判は門閥貴族からの評価です。寒門たちにも出世の扉は開いていたので、寒門で抜擢された人たちは武帝に感謝はしたでしょうが、結局どう頑張っても位人臣を極めるところまでは登れません。建康は繁栄したようですが、その繁栄も貴族のものです。国境線では、兵たちの死体の山と血の河が出現することが日常茶飯事だったはずです。毎月のように、北魏側も梁側も城ごと寝返ったり小競り合いをしたりして、国境がはげしく変わっています。それを何とも思わないような門閥貴族連中たちと漢詩を作っては酒を飲む生活です。むちゃくちゃな劉邦でも、英布が反乱したら自分で討伐に行っています。二人とも乱世の皇帝で、自分で軍を率いることもありましたが、即位後は動かない蕭衍と劉邦では、気概が違うことがわかるかと思います。逆に、武帝が長生きしたからこそ、多くの人たちが長く現役でいる事が出来ました。代替わりしちゃうと、次の皇帝の側近や、新しく抜擢された人たちが台頭してきてゴタゴタします。『梁書』を読むと、武帝の頃と元帝の頃とで、顔ぶれが全然違いますよね。これは武帝の治世が長かったことや、侯景の乱とか武陵王と元帝の大ゲンカとかが影響しているでしょうけど、すんなり代替わりすることが少ない魏晋南北朝では、宋の文帝とか梁の武帝のように長生きした皇帝の治世で長く現役を続けた人たちが、長期的に安定した結果を出せた面もありました。たとえば、北周の宇文憲や王軌は、武帝の急死後、宣帝にアッサリ殺されました。武帝があと10年も生きれば、もっと彼らは活躍できたかもしれません。他にも、北斉の楊愔なんかも、東魏時代からの名臣ですが、代替わりで割を食った感じですし、名君と名高い南斉の武帝は、早々になくなっちゃったものですから、本人は老害を発揮せずに済みましたが、19人の皇族の命と引き換えに、明帝の治世に突入します。この時点で南斉はほぼ終わりです。蕭道成の頃からの重鎮たちも、息をひそめるか、日和るか、粛清されるかしました。明帝も長生きはしませんでしたから、アンチ東昏侯の連中が蕭衍の挙兵にくっついて梁に代わりますよね。晋の武帝とか、唐の玄宗とかも似たようなものなのかな、と。名君の名をほしいままにしたところで、そのあとが、史実とは違った形で、めちゃくちゃになっちゃいそうです。梁の武帝は南朝の皇帝の中では名君だったと思いますが、「史上屈指」となるとどうでしょうか?全土を征したり全土に渡って善政を布いた君主や、後の王朝の手本となるような制度?政策を採った皇帝、統治に慈愛が感じられたり勤勉?明晰な資質を持った皇帝などは中国史上では実に多く居るからです。南北朝以前に限っても、始皇帝?漢高祖?漢宣帝?光武帝など有能な君主たちはいたのですから、それらに比して梁武帝が格段に優っているとは言えないと思います。人材を登用して国家制度を整備し倹約家であり、文化の保護者でもあった梁の武帝は仰る通り名君ではありましたが、その治世には割り引いて考えなければならない事もありました。誰もが認める「長生の弊」は言うまでも無く、人材登用についても寒門と貴族を無造作に併用した為に党争が起きています。寛容だった事は美徳の一つでしたが、北朝への亡命者であり敵前逃亡者であり不行跡であるばかりか叛心をも持っていた甥の臨賀王蕭正徳を何ら処罰しなかった事などは明らかに君主としては失政だったでしょう。仏教への耽溺もそうですが、この辺りの「お人よし」は美点でもあり欠点でもありました。東昏候東のバカ殿として知られる蕭宝巻の治世が酷過ぎた事や、文化の奨励?保護を行った事などで実績以上に名声が高くなったようにも思えてしまいます。梁の武帝が40~45歳で亡くなり、蕭統昭明太子にその分の寿命が与えられていたら????と私は考える事があります。「治世前半では名君だが後半で晩節を汚した」という皇帝も中国史では多いですが、梁の武帝の振れ幅はその中でも大きい部類なのでしょうね。

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